砂漠

 昔々、シアレンスに一人の少年がいました。
 ある日、少年は町の近くの『星降りの砂漠』へ一人で遊びに行きました。
 長老である祖母や町の大人たちから厳しく言い付けられていることがありました。町の外はモンスターがいて危ないから決して出かけてはいけない。特にソルテラーノ砂漠には、人間とよく似た姿で角を持った恐ろしいモンスターが住んでいて、シアレンスの人間を嫌っているのだと言います。
 少年にもモンスターを恐れる気持ちがほんの少しだけありましたが、それよりも未知の世界への好奇心を抑えきれずに、内緒でただ一人、町を抜け出したのでした。
 砂漠に足を踏み入れると、太陽が砂上のすべてを焦がすように照り付け、低く吹きつけた風が砂に波を描いていきます。空気も風のにおいも、何もかもが町とは違いました。
 少年はほんの少しの不安と、それ以上の期待に心を躍らせて砂漠を進みます。
 大人の背丈より何倍も高くそびえる岩に挟まれた道を抜けると、どこまでも果てしない青空と砂の地平が続く場所に出ます。今は星は見えないけれど、そこは『星降りの砂漠』と呼ばれている場所でした。
 その雄大な景色に圧倒されているとふと、視界の端、岩の陰に人影を見つけました。
 モンスターの足跡は見当たらないから旅人かなにかでしょうか。少年がその影に目を凝らすと、それは彼と同じくらいの年頃の子供のようでした。
 向こうも少年に気づいているようで、じっと息をひそめてこちらを見ています。もしかしたらモンスターを恐れて隠れているのかも。町まで送ってやったほうがいいかもしれないと考えて、少年は岩の方へと歩み寄ります。
「なあ、お前……」
 迷子か? と訊こうとしたその時、少年は気がつきました。
 その子供の額には、小さいけれど、確かに角が生えているのです。
 人間とよく似た姿。角を持った、恐ろしいモンスター。
 心臓がどきりと大きく波打ち、それでもなぜか、少年はその場から逃げようとは思いませんでした。恐ろしくて足がすくんだわけではありません。少年が感じていたのは、大人たちの言うモンスターが本当に存在し今まさに目の前にいることへの驚きと、それから。
 ──なんだ、ぼくとそんなに変わらないじゃないか。
 拍子ぬけしたような、安心したような、親しみさえ湧いてくるような不思議な心地でした。角の生えたその子供も少年に敵意がないのを悟ったのか、その視線は好奇心を含んだものに変わっているようでした。
 このまま見つめあっているわけにもいかないからと、少年がもう一歩踏み出そうとしたちょうどその時、右肩に突然、衝撃と、遅れて痛みが走ります。
「はなれなさい、人間!」
 驚いた少年が振り返るとそこにはもう一人、額に角を持つ少女が立っていました。
 その小さな手が石を握りしめているのを見つけて、少年はやっと状況を理解しました。湖の雫のような瞳に怒りの炎が燃えあがろうとしているのが見えるような気がして、少年の背中にはひやりとした緊張が走りました。
 少女がその幼いながらも凛とした眉を釣り上げて、もう一度腕を振り上げたその時。
「クルルファさま、待って……!」
 はじめに、キン、と奇妙な振動が耳に届きました。次に少年の背後で何かが光り影が視界をおおったかと思うと、次の瞬間には岩の陰に隠れていたはずのあの子供が少女の隣に現れたのです。
 少女も一瞬驚いたように目を丸くしていましたが、すぐに石が放り捨ててその手を取ります。そしてその足が砂を力いっぱい蹴り上げて走り出すと、二人とも砂の景色の中へと消えていきました。
 その場に立ちすくむ少年の心臓は、今はどくどくと冷たい鼓動を打っていました。
「彼らは私たちを嫌っているのだ」
 いつか聞いた声が少女の表情と重なって、右肩が先ほどよりもひどく痛むような気がしました。


 その後のこと。
 ゼエゼエと空気が喉を通り過ぎる音が、あの角の生えた少年の耳の奥で響いていました。
 岩や巨大な骨の間をいくつもの抜けて、彼がもう一人の少女の手にほとんど引きずられるような形になった頃、砂で覆われた地に根を下ろす木の下で二人はやっと足を止めました。
 あの人間の少年が追ってこないことを慎重に確認して、少女ははあっとひときわ大きく息をつくと、
「オンドルファ、けがは? あの人間に何もされていませんか?」
 今にも泣き出しそうな顔で、少年の手を痛いほどにぎゅっとにぎり締めて問いかけます。
 彼女よりもずいぶん遅れて息を整えて、やっとのことで「大丈夫です」と少年も答えます。すると少女は「ごめんなさい、わたしがつれ出したせいだわ」ともっと顔を歪めてうつむいてしまいました。
「もうしばらくあそこには近づかないようにしましょう。また人間に見つかったら大変ですもの」
 ああ、彼女は冒険に出かけるのが好きなのに。少年も切ない気持ちになって彼女の手を握り返します。星降りの砂漠は彼らの数少ない遊び場でした。
 『角を持った、人間によく似た姿の恐ろしいモンスター』──あるいはこの二人の子供たちは、砂漠に住む有角人という種族の末裔なのです。
 昔々、それよりも遠い過去の時代。
 シアレンスに共に暮らしていた人間と有角人はある日仲違いをし、ついに有角人は砂漠へと追いやられてしまいました。そしてさまざまな種族のモンスターたちと身を寄せ合い、小さな集落が生まれたのでした。
 少女は幼いながらに、大人の有角人たちと同じくらい人間に──実際には見たことも話したこともないシアレンスの人々に怒りを燃やし、そして彼らに大切な仲間を傷つけられることを恐れていました。
 けれど少年のほうは違いました。誰にも打ち明けたことはないけれど、少年は人間に興味がありました。
 集落の大人たちも、残された書物も、人間やシアレンスについてあまり多くのことは教えてくれません。シアレンスはとても美しい街で、人間は冷酷だと言うことだけが繰り返し語られるだけ。
 その度に少しずつ疑問が積み重なるのです。
 なぜわたしたちは人間をずっと許せずにいるのだろうか。
 かつての人間が本当に冷酷だったとしても、永遠に関係を断つ必要はあるのだろうか。
 例えばゴブリンの中にも、集落に悪さをする者もいれば、共に暮らす仲間になれる者もいるのに。
 美しい花もいつかは枯れるように、砂が少しずつ風に流されて砂漠の地形を変えるように、遅かれ早かれ、全てのものは変化していくのに。
 その疑問を追いかけるうちに、遥かに長い時を生きてきた大人でも優れた書物でも答えを持っていないものがあるのだと少年は知りました。
 少女の言葉に反して、少年はずっと考えていました。
 ──あの人間の少年と話してみたかった。
 太陽の光を集めたようなオレンジ色の髪。晴れ渡った夏の空の瞳。まぶたの裏にまだあの姿が焼き付いています。初めて見た人間は、やはり冷酷な生き物のようには思えませんでした。
 ──星降りの砂漠に行けばまた会えるだろうか。それとも、もうわたしたちを嫌いになってしまっただろうか……。
「オンドルファ?」
 少女の心配そうな声が少年を引き戻します。
「ねえ、ほんとうに大丈夫ですか? やっぱり何かあったんじゃ……」
 そう尋ねる彼女の指先が今もまだ震えているのを感じて、少年は今は考え事を仕舞い込むことに決めました。
 少女も、大人たちも、シアレンスを離れることに決めたかつての有角人たちも、ただ仲間を大切に思っているから人間を恐れているのだということも、少年は知っています。
 少年は首を横に振って答えます。
「大丈夫です。今日はもう帰りましょう」
 彼女たちの恐れを知っていてもなお疑問を捨てられない自分は、同じように考えられない自分は、いつか彼女を失望させてしまうのかもしれない。少年は時々そう考えます。それでもせめて今はまだ、彼女の手を握っていたいと思うのです。

おしまい



砂漠

2022.07.14