しるし、幕、ふれる

文字書きワードパレット弍より 17.シムラクルム
お付き合いしてるマイスくんとオンドルファさん


 テントの中は分厚い天幕を叩く雨音に包まれている。それ以外の音は届かなくなり、布一枚を隔てて外の世界から切り離されたような感覚になる。そんな中で一人、書物の世界に没頭するのがオンドルファは好きだった。
「あの、」
 しかし、そのたった一言で現実へと引き戻される。
 客人である少年は遠慮がちにオンドルファの顔を覗き込んで言う。
「すみません、邪魔しちゃって……」
「いいえ、私こそ本に夢中になりすぎましたね」
 集落に立ち寄ったところをにわか雨に降られたマイスは、オンドルファの元に届け物をして、そのままここで雨宿りをしていた。オンドルファが読書をしている間、マイスもここの蔵書でルーンアビリティについての調べ物をして、思い思いに過ごしていた。
 雨が無数に落ちるのに合わせるように、青い目が微かに揺れているのが見てとれる。ほんの数日前、二人が恋人になった日にオンドルファが見た光景とよく似ていた。
「キスしてもいいですか?」
「……なぜ、今?」
 最初に口をついて出たのはそんな素っ気ない言葉になってしまった。べつに嫌ではなかったけれど、ただ何をきっかけに彼がそう望むのか不思議だった。
「オンドルファさんを見てたらしたくなって」
 俯いた目と頬に落ちる睫毛の影だとか、頁をめくる指先だとか、長い髪が肩から流れ落ちてはそれらを隠してしまう瞬間だとか。
 理由を聞いても不可解なままだったけれど、「わかりました」とオンドルファは答えた。不可解だとしても彼の望みなら叶えてあげたい、というのが彼なりの愛情のしるしだったから。
 それに知りたかった。実際にやってみれば自分にもいつか理解できるのだろうか。それから、今胸の内に渦巻いているもどかしいような、苦しいような奇妙な感覚を、マイスも知っているのか。
 さっきまで潜っていた世界をほんの少し名残惜しく思いながら、手の上に開いたままだった本に目じるしをして閉じる。
 視界に影が落ちて、肌が触れるうちに、雨の音はしだいに遠くへ追いやられてしまう。



しるし、幕、ふれる

2023.10.09