秘密
終業の鐘が鳴ると教室の中はたちまち、解放された生徒たちのざわめきで満たされる。クラスメイトから呼び止められる前にそこを抜け出して、僕は学校の裏山へと向かった。
秋の色に染まり始めた木々の奥へ進むと、そこにはモンスターが棲む洞窟が口を開けている。
黒い岩の壁に手を触れてあたりに生き物の気配を探してみる。洞窟の中では夏でもどこからか涼やかな風が吹き、特に今の季節はひと足先に冬がやってきたように空気が冷えて澄んでいる。
遠くから足音や鳴き声が聞こえるけれど、モンスターの影は見えない。また、来た道を振り返っても生徒たちの賑やかな声はここまでは届かず、穏やかな風がさやさやと木の葉を揺らす景色が続くだけだ。
念を入れて入り口から死角になる岩陰に身を隠す。かたく目を閉じて、すうっと深く息を吸い込み、心を自分の内側に集中させる。金色の光がまぶたを突き抜けていく、それは僕自身の体から放たれた光だ。
体が小さく、軽くなって、再び目を開けば景色は先ほどまでとは何かが違う。
僕は金色の毛を身に纏った「モコモコ」というモンスターの姿になった。
複雑に捻れた道を進み、泉の上に浮かぶ蓮や小岩の上を飛び跳ねて、洞窟の中を進んでいく。あたりはモコモコのかすかな足音さえも時折小さな木霊になって響くほどに静かだ。
この泉の辺りに棲むのは穏やかな気性のモンスターが多く、ちょっと珍しい毛色をしたモコモコがそばを通り過ぎたところで気に留めていないようだった。
人間から見ればモコモコの歩幅は小さく力も弱いけれど、身軽な体は自然界を生き抜く力をたしかに持っている。
それに、この姿ならモンスターたちを怖がらせず、むやみに争わずに済むのは何よりも大きな利点だった。
ずいぶんと歩いたところで、黒と灰色の景色が続く中にひとひら、赤い木の葉が風に乗ってひらめき、それから僕の手の上へと落ちた。もうすぐだ。
もうひとつ湖を越えて、入り口の辺りよりも白灰色の岩壁を抜けたところに目的の場所──もうひとつの学校はある。
そこは円を描くように開けた空間になっていて、他の場所よりも明るい。高い天井と山の地表の間をつらぬくたて穴から光が降り注ぎ、風や落ち葉が舞い落ちてくるのだ。
目の前には、洞窟の岩肌と大小の石を組み合わせて造られた壁と、アーチ状の木の扉がある。その扉がちょうど開いて、向こうから見知った顔が現れた。
「クルルファ先生、こんにちは」
「マイスさん、来てくださったんですね」
クルルファ先生は一見人間とそっくりだが、エルフに似た尖った耳と、額には蛍石のように淡い色の角を持っている。有角人と呼ばれる種族の末裔だ。
彼女の言葉のあとに、大きなマントの後ろから他のモンスターたちが何匹がひょこりと顔を出す。モコモコとフェアリー、マッシュの子供たち──この学校の生徒だ。彼らも懐っこく手を振って挨拶してくれる。
「この前頼まれたもの、持ってきました」
「まあ、ありがとうございます」
荷物を取り出して見せるとクルルファ先生の表情がぱあっと明るくなった。
時々、こうして学校に必要なものを頼まれて届けることがある。今回は保存の効きそうな果物やジャム、それからお茶の葉などだった。
「これからお出かけですか?」
「ええ。学校の冬支度も兼ねて、みんなで洞窟の中を探索するんです」
「僕も一緒に行きましょうか?」
場所によっては気性の荒いモンスターもいることを思い出して尋ねると、「ゼゼが先に様子を見に行っているから心配ありませんよ」と彼女は答えた。
ゼゼはドワーフの少年で、クルルファ先生たちと共にこの学校で暮らしている。先生ではないけれど、元気で面倒見の良い、生徒たちの兄貴分といった存在だ。
確かに、彼がいるなら大丈夫だろう。
「じゃあこれ、倉庫の方に運んでおきますね」
「そんなことまですみません。そうだ、お礼はオンドルファが持っているはずですから聞いてみてください」
先ほどまで授業をしていたせいか、学校の中はかすかに温かかった。扉をくぐってすぐに、岩壁に囲まれた小さな教室があり、その奥にはカーテンで区切られてもうひとつの部屋がある。
そこは倉庫と先生たちの書斎を兼ねていて、食糧や雑貨の備蓄と、一角には古い本や巻物の類が収められた本棚がある。カーテンをくぐって中を覗き込むと、雑然としたその空間にぽっかりと穴が空いたような違和感があった。
「あれ、珍しいな……」
いつもなら本棚のそばの書物机に向かっているオンドルファ先生の姿が、今日はなかった。オンドルファ先生は物静かで穏やかな性格の男性で、クルルファ先生と同じく有角人だ。
彼もちょうど出かけているのだろう。そう納得して、ひとまず作業台に荷物を下ろす。そこには冬用の反物や毛布が、食糧の棚には干した果物や魚が集められていて、クルルファ先生の言っていた冬支度という言葉を思い出す。
ふと、視界の端に引っかかるものがあった。振り向くと、一番背の高い棚にぎっしり詰め込まれた荷物がぐらぐらとバランスを崩しかけているのを見つけた。このまま落ちてしまったら大変だ。咄嗟に近寄るものの、モコモコの背丈では届くはずもない。
人間の姿に戻れば、という考えが頭を過ぎる。そうだ、ちょうど今は僕の他に誰もいないのだから、ちょっと棚の上を直すくらいなら大丈夫なはず……。
目を閉じて、もう一度開くと、モコモコの姿で過ごすことに慣れた学校は人間の姿ではずいぶんと小さく感じられた。
踏み台に乗るとなんとか一番上の段まで目線が届いた。収められた荷物の中に割れ物の類を見つけてヒヤリとする。それをまっさきに手にとり、中を整理した。
これで大丈夫かな、と思った時だった。向こうの部屋でギイ……、と扉が開く音が聞こえた。
──まずい……!
はやくモコモコの姿にならないと。けれど混乱と焦りにもつれた足が台を踏み外して、ガクンとバランスを崩した。
「うわっ……⁉︎」
景色が回転して、次の瞬間には、ごつん、と床に打ち付ける音と衝撃が頭の奥に響く。それから間も無く本が何冊かバサバサと墜落して、最後に小さな瓶もひとつ、僕のお腹の上に落っこちてきた。
「誰かいるんですか?」
「わ、待って!」
尻餅をついた床から、コツ、とこちらに近づく足音が伝わってくる。慌てて体を起こすと脳がぐらぐらと揺れた。
制止の声も虚しく、見上げた先には既に、よく知った顔があった。いつも静かで理知的な灰色の目が、眼鏡の奥で驚きに揺れている──オンドルファ先生だった。
彼がたじろいだのを見た瞬間に、心臓が痛いほどに鼓動を打った。一瞬、頭の奥が白くなる。
彼ら有角人は人間と似た姿や文化を持ちながら、エルフやドワーフのように人間と交わって生活することは決してない。詳しいことはわからないけれど、彼らは人間を避けてこの洞窟の奥で暮らしているのだ。
僕が人間だと知ったら怒るだろうか、怖がらせてしまうだろうか。
彼らと過ごす間、ずっと胸の奥にあった問いの答えが今、目の前に突きつけられようとしていた。
でも、まだ手遅れではないはずだ。頭のどこか冷えた部分が言う。ひとまずこの場から逃げられれば、人間の少年とモコモコは結びつかないはずだ。
「マイスさん、待ってください……!」
今まさに飛び出そうとした僕をオンドルファ先生は呼び止めた──僕の名前を呼んで。
思わず全身の動きが、鼓動さえもが止まったように感じて、それから自分の手を見た。もしかしたら何かの勘違いで僕はモコモコの姿だったのだろうかと思ったけれど、そこにあるのはたしかに人間の体だった。
「どうして……」
「落ち着いて、話をしましょう。他に誰もいませんから……」
敵意はないと示すように、オンドルファ先生は手にしていた本をそばに置いて、まるでいつも通りに佇んでいる。僕はなんだか力が抜けてしまってその場にへたり込んだ。
「頭を打ったでしょう、さっきすごい音がしましたよ」
ゆっくり、手負いの獣を相手にするように歩み寄り、「見せてくれますか?」と囁き声で言う。まるい眼鏡のレンズにはひどい顔をした自分が映り込んで見えた。
頭がうまく働かないまま頷くと、オンドルファ先生の手が後頭部に触れた。今になってやっとそこがジンジンと鈍く痛むことに気づく。彼が目を閉じると、触れた場所から静かな、あたたかい波が流れ込むようだった。
「よかった。傷にはなっていないようですね」
「あ、ありがとうございます……」
声とともに手が離れていく。頭の痛みがひくと、動悸や目眩もずいぶんとマシになっていた。
「あの……、知ってたんですか? 僕のこと……」
「確信があったわけではありませんが、なんとなくは……」
推測できる材料はいくつかあったのだとオンドルファ先生は言う。
洞窟や周辺の森では入手できないような品を届けたこと、モコモコの群れで生活しているわけではなさそうだと言うこと。普段は人間とともに暮らしているのかもしれないと考えたこともある、と。
「それに、今のその姿を見かけたこともあります」
「えっ?」
「忘れ物を届けようと思って後を追ったら、人間の少年とオークが戦闘になっているところに鉢合わせたんです」
「なるほど……」
学校までの道の途中には人避けの魔法をかけているのにどうやって辿り着いたのか。それにどこなく見覚えがあるような気がしたんです、と彼は付け加える。
数週間ほど前に、確かにそんなことがあった。この学校からの帰り道を襲われて、武器を持った相手にモコモコの姿では不利だから、咄嗟に人間の姿に戻ってしまった。
「まさかとは思いましたが……。今は、やっと全てのピースが埋まった気分です」
迂闊だった……。思わず肩を落とすとオンドルファ先生が苦笑する。
「マイスさんのことも教えてくれますか?」
「……はい」
少しは落ち着いたと思ったのに、深く息を吸い込んだ胸にはいまだに早鐘を打ち続ける鼓動をありありと感じた。
オンドルファ先生の目の前で、僕は再びモコモコの姿に変身する。無意識にもずっと強張っていた体が、ほんの少し軽くなったように感じる。
「ええっと……。僕は人間から、モコモコに変身することができます」
普段は人間の姿で、他の人々と同じように街で生活している。この能力に気づいたのはほんの数ヶ月前のことだった。
片親がモンスターだったのだろうかとも考えたけれど、両親はいないし幼い頃の記憶も曖昧で、正直なところわからないことばかりだ。洞窟に出入りするようになったのは、モンスターたちの世界を知れば自分自身のことも何かわかるかもしれないと思ったからだ。
そしてある日、洞窟の奥にひっそりと隠されたこの学校を見つけた。
学校の手伝いをしたり、時々生徒たちに混ざって授業を聞いたり、ゼゼに付き合って探索に出かけたりするのは楽しかった。
人間としての生活と同じくらい、モンスターとして見つけた居場所が大切になった。同時に、僕の秘密のせいでそれを失う可能性を考えずにはいられない。
「他にこのことを知っている人は?」
「誰にも話してません。もちろん、ここのことも」
彼らを脅かすつもりはなかった。それだけは伝えなければいけないと思って、灰色の瞳を見つめて答える。
「……オンドルファ先生は平気なんですか? 僕が人間でも……」
おそるおそる尋ねると、オンドルファ先生はほんの少し考えてから答えてくれた。
「私たちは人間に直接会ったことがありませんでしたから……。驚きましたが、話していると人間でも貴方は貴方のままだとわかって安心しました」
「僕は……、自分でわからなくなるんです。みんな大切だから、誰も怖がらせたくないだけなのに……結局みんなを騙すことになるなんて」
「そうですね……」
誰にも話すつもりはなかったことまで、いつの間にか言葉になって次々に溢れてくる。オンドルファ先生もまた、一人で仕舞い込んでいた考えを慎重に取り出すように言葉を探していた。
「確かに、怖いのは皆同じです。私たちも人間も、貴方も」
「僕も……?」
みんなを怖がらせたくない。そればかり考えてきたから、彼の言葉は不思議な響きに聞こえた。
「皆、居場所や大切なものを失ったり傷つくのが怖くて、違うものを避けたり争いが起こるのでしょう。貴方はきっと……大切なものがたくさんあったから、ずっと怖かったんですね」
オンドルファ先生の静かな声が、優しく心を撫でるようだった。心の中で何かがほどけて、溶け落ちて、気づくと魔法が解けたように人間の姿に戻っていた。
「あ……」
「大丈夫ですよ」
「……はい」
ふと、石造りの壁とカーテンと、小さな窓に囲まれ切り取られたこの場所が、まるで世界のすべてのように感じられた。山のさらに向こうへ沈みゆく夕陽がひと筋、曇りガラスの窓を照らしてキラキラと散っていく。
大丈夫。彼の言葉がその小さな世界に落とされて、空気に溶けると、やっと息ができるようになった、そんな気がする。
「マイスさん。すぐに皆が信じ合うのは難しくても……まず私たちが信じてみるのはどうでしょうか」
「僕、またここにきてもいいんですか……?」
「もちろん」
言葉にならなくて、ただ頷くことしかできない僕に、彼は変わらず微笑みかけていた。