旅館『都』の前で婚約者の姿を見つけたのは穏やかな昼下がりのこと。旅館の玄関へと続く太鼓橋の手前で彼が話している相手は数週間に一度町を訪れる商人だ。こちらからはオンドルファさんの表情は見えないけれど、話の内容は大方想像がついた。
話が終わり商人が去るのを待って、オンドルファさんに声をかける。
「おや、マイスさん。お仕事中ですか」
「ちょうど食堂への届け物が終わったところなんです。オンドルファさんはお買い物ですか?」
まだ近くに見える例の商人の後ろ姿に視線をやりながら尋ねる。
「ええ。例の件で……」
少し言葉を濁すところを見るに、予想は当たっていたようだ。例の件と言うのは、彼のテントに置く新しいベッドのことだ。
今でもふと信じられない気持ちになるのだけど、先日オンドルファさんにプロポーズをし、晴れて婚約者となった。それからここ数週間は結婚までの準備を二人で進めていた。
オンドルファさんは集落の長であるクルルファさんの補佐、僕は畑とシアレンスの樹の家を守るため、直通のワープゲートがあるとはいえ生活拠点を大きく変えることは二人とも難しい。話し合った末、仕事を終えたあとの時間は集落とシアレンスの家で順番に過ごすことになった。
僕はウエルズさんたちの助言に従って先にダブルベッドを用意していたが、問題はオンドルファさんのテントのベッドだった。
今使っているものは二人で眠るには手狭だ。一緒にベッドに入る際は僕がモコモコの姿になるだとか、集落で昔使われていた大きめのものが残っていないだろうかとも考えたが、クルルファさんに相談したところ「せっかくですから新しいものを探しましょう」と言ってくれたのだった。
しかし、砂漠とシアレンスの町とでは気候が異なるから、僕が先に購入したのと同じものを雑貨屋で手に入れると言うわけにもいかないようだ。調べてみると砂漠に家を構えるのはなかなかレアケースのようで、気候にあったものを探すのは簡単ではないとわかった。
伝手を通じて別の街に住むドワーフの職人にベッド作りを依頼することになったと聞いていたが、先ほどの商人は布類を見せていたようだからその職人とは別件だろうか。
「寝具に使う布をいくつか見繕って頂くことにしたんです。近いうちにまた来るそうですから、マイスさんの希望も聞かせてくださいね」
ミキサーで作ったばかりのリンゴジュースを手にオンドルファさんは言う。
「お互いに用事がひと段落したところですしお茶にしませんか」とお誘いして、一度シアレンスの樹の家へと帰ってきた。食堂に入っても良かったのだけど、オンドルファさんは外ではあまり進んでこの話をしたがらないだろうから。ベッドの話がどうと言うよりは、それを聞きつけた町のみんなの反応──冷やかされたり素直に祝福されたり、あるいは微笑ましげに見守られたり──にどうにも恥ずかしくなってしまう気持ちは、僕にも少しわかる。
「例の職人からも、そろそろ完成しそうだと手紙が届いたんです」
「楽しみですね。そう言えば、ダブルベッドって結構大きいですよね。テントの模様替えとかするんですか?」
「私のところは荷物が少ないので特に問題ないとは思うのですが……」
しかし、家具の大きさは実際に見たり、部屋に置いてみないと意外とわからないものだ。そうだ、ちょうどここにあるものが参考になるのでは、とテーブルから離れて、僕は腰掛けたシーツの上をゆるく叩いて提案する。
促されるままに隣に腰かけて生真面目にベッドの広さを調べているオンドルファさんを眺めていると、このまま二人でシーツに体を預けて過ごしていたいな、なんて気の抜けた考えが浮かぶ。寝間着にも着替えず、昼間からベッドの上でゴロゴロするのはお行儀が悪いけど、ほんの少しだけ……。
「本当に結婚するんですね……。やっと実感がわいてきたような気がします」
僕の呑気な考えなど知るよしもなく、オンドルファさんがしみじみと言う。それはつい最近まで片想いをしていた身としては少し、胸が不安にざわめく言葉だった。
僕も近頃はよく「幸せすぎて信じられない……」などと吐露しているせいであまり人のことは言えないけれど、オンドルファさんのそれが僕と同じ理由だとは限らない。何もかも順調だと思っていたけど、気持ちが追い付かないまま無理をさせていないだろうか。
「……不安なことがあったら、言ってくださいね」
「不安なわけではないんです。ただ、自分が誰かと一緒になるなんて考えたことがなかったものですから」
本当は不安なのは僕の方なのだと悟ったのか、オンドルファさんは少し眉を下げて微笑む。
長い長い、僕には想像もつかない時間を生きてきた中で、集落に住むモンスター同士が結ばれることも幾度かあったから、結婚が全く遠いものだったわけではない。
それに、先代の長老──クルルファさんの父親が彼女に残した「いつか一生、添い遂げたい人ができたなら、集落を出てその人と幸せになりなさい」という約束があった。その時彼女と集落を支えるのが自分の役目だとずっと思っていたのだとオンドルファさんは言う。
「ずっと……、何百年もそう思っていたのに、マイスさんに出会ってここまであっという間だったでしょう。今になってやっと気持ちが追いついたのかもしれないですね」
長い間信じ続けていたものが変わってしまう感覚というのは、僕にはまだわからない。記憶喪失ともなれば尚更だろう。
でも、いつか僕と同じように幸せだと感じてくれたら──なんて自惚れたことを考えていた矢先、
「マイスさんが最近よく言っている、幸せすぎて信じられないというのもこんな気持ちなんでしょうか?」
ふと思いついたというように、僕の気も知らずに、時々爆弾を落としていく人である。
「そう言えば、彼は色々な町を回っているでしょう。それで、新婚旅行の話になったんです」
そう言われて考えてみてわかったことだが、僕はシアレンスの外の世界のことをほとんど知らないし、あまり興味もないようだ。シアレンスに辿り着く以前の記憶もなければ、よその町のことを知る機会も時々聞こえてくる噂話程度だら、興味を持つほどのきっかけが今までなかったとも言える。
でもオンドルファさんにはきっと、行ってみたい場所が数え切れないほどあるのだろう。本人にそう尋ねてみると、少し考える仕草のあといくつもの地名が挙がる。やはりどれも僕の知らない名前だ。遥か昔の時代の遺跡や何万冊もの蔵書を誇る図書館、竜と人々が共に暮らす城下町……。
膨大な知識を蓄えても尽きず、むしろ日々増していくようにも見える彼の探究心には時々驚かされる。未知のものへの感動は僕にも人並みにはあるはずだけど、それよりも好奇心にきらめく彼の瞳を美しいと感じる。
「それから、海に行ってみたいです」
「海ですか?」
以前ゼゼから海の話を聞かされたことがあったけれど、それも元はオンドルファさんから教わったのだと言っていた。
有名な遺跡や古い伝説が残っている場所といったわけでもなく、ただ海を見てみたいのだと彼は言う。
「なんと言いましたか……昔好きだった本の中に海を冒険する子供たちの物語があって、ずっと憧れがあったんです」
「じゃあ、船で旅行をするのもいいかもしれませんね」
オンドルファさんが行きたい場所ならどこへでも一緒に行こうと思っていたけれど、海の話には僕も不思議と心惹かれるものがあった。
僕もその本を読んでみたいですと言うと、今度探してみましょうと答えてくれるオンドルファさんの声はいつもよりほんの少し弾んで聞こえる。僕が本に関心を持つことが珍しいせいかもしれない。
生まれてから数百年の時を砂漠の中で過ごしてきたオンドルファさんにとって、きっと本こそが外の世界だったのだろうとふと思い至る。あのテントの蔵書を全て読み込めば彼のことを、彼が憧れる世界のことを、少しは理解できるのだろうか。
「オンドルファさん。今日はもうお休みにして、ここで旅行の計画を立てませんか」
提案を装って言うが早いか、ベッドに寝転がってもうこの場を動く気がないことを示す。集落の方は先日食料や物資の整理をしたばかりで、特別急ぎの仕事はないことを僕は知っている。
オンドルファさんは「お行儀が悪いですよ」と、わざと呆れた顔を作るけれど、そこに拒絶の色はない。
「このままだと皺になっちゃいそうですね」
それに気を良くして裾をゆるく引くと、諦めたようにため息をついて、彼は重たいマントを肩から落とした。
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「キッチンをお借りしてもよろしいですか?」
「もちろんいいですけど、……お腹空きましたか?」
午後八時を過ぎた頃、オンドルファさんからの意外な申し出に僕はひとつまばたきをした。
集落で夕食をとった後、今日はシアレンスの樹の中に作られた家で過ごす日だった。
お互いに生活拠点を大きく変えることが難しい身のため、僕たちは一日の仕事が終わったあと、夜の間は集落とシアレンスの家で順番に過ごすことにしていた。
オンドルファさんは食事をジュースで済ませてしまうこともあるくらい少食なので、夕食後のこんな時間におやつをとるのは珍しいと思い尋ねる。
「グルテンさんから料理の本をお借りしまして。読んでいたら試したいものが見つかったんです」
「へえ、お菓子の本なんですね」
「ええ。集落の調理場にはオーブンがないのでお借りしたいんです」
見せてもらうと、ページの端にクッキーの挿絵が載っている。集落の彼の本棚に収められている蔵書よりは比較的最近に出版されたものだと僕にもわかった。お菓子にまつわる様々な国の文化が記された本なのだとオンドルファさん言う。
「クッキーかあ、クルルファさんが喜びそうですね」
「そうですね。そのうち集落の皆に振る舞うのもいいかもしれません」
お菓子と言えばクルルファさんかラスクだ。てっきり、読んでいる間にクルルファさんのことが頭に浮かんだのだろうかと思っていたけれど他に目的があるようだ。
気になったけれど、オンドルファさんはもう準備に取り掛かっているので、落ち着いてから聞くことにしようと考える。オーブンの使い方を確認しているようなので、僕は戸棚から必要な道具を取り出して広げた。
「使い方がわからなかったらなんでも聞いてください」
「ありがとうございます。でもマイスさんは気にせず休んでいてください」
なんだか、やんわりと追い払われてるような気がする。なおさら気になってしまうのをぐっと堪えて、めげずにもう一つだけ、言いたかったことを付け加える。
「ここはもうオンドルファさんの家でもあるんですから。キッチンでもなんでも好きに使ってくださいね」
「集落で育ったので、他所の家のものに触ると言う経験があまりなくて……。なんだか気後れしてしまうんです」
「なるほど……」
オンドルファさんは集落の自室でもこの家でも静かに本を読んでいることが多いから、そんなふうに感じているとは気がつかなかった。僕も初めてここに足を踏み入れた時、町の人々にとって大切な場所を借りることになってずいぶん緊張したことを思い出す。
時間はたっぷりあるのだから、オンドルファさんもいつかここをもう一つの我が家だと思えるようになるといいな。
僕がそんなことを考えている間にもオンドルファさんは手際良くクッキー作りを進めている。分量を測ったあと、ボウルの中でクッキーの生地を混ぜる音。オンドルファさんがこの家のキッチンで料理をしているという状況はなんだか新鮮で奇妙で、そして幸せな気持ちがこみ上げてくる。今度一緒に料理をするのも楽しそうだな、なんて考えながらその背中を眺めていた。
しばらくして混ぜ上がった生地を冷蔵庫に入れると、オンドルファさんがこちらを振り向いて、あの、と少し言いにくそうに切り出す。
「……そんなにじっと見つめられると穴があきそうです」
「えっ! ああ、すみません……!」
じっと見つめ過ぎて気づかれていたようだ。オンドルファさんは苦笑して、僕の方に戻ってくる。
「何か気になることでもありましたか?」
「いえ……なんだかしみじみしてしまって」
僕が朝から晩まで出かけたままのことも少なくないせいで、二人でただゆっくり過ごす時間は意外と少ない。毎日一緒に暮らしていても日々新しい発見があるものだと、いつか彼が言った言葉を思い出す。オンドルファさんは納得したわけでも特に気にしているわけでもない様子で、僕の言葉をそのまま受け取ることにしたらしかった。
「ところで、試したいことって何か聞いてもいいですか?」
「シアレンスでは馴染みがありませんが、ノーラッド王国には秋の月にバレンタインデーというお祭りを行う地域があるようなんです」
栞が挟まれた先ほどのページを開いてオンドルファさんは言う。バレンタインデーにはお世話になっている人や愛する人にクッキーを贈るものなのだそうだ。他にも由来やら色々あるようだけど、僕が口を挟んでその説明は後回しになる。
「じゃあ今作ってるのは……」
「マイスさんに差し上げたいんです。成功すればの話ですが」
「わあ、楽しみです! でもそれ、今聞いちゃってもよかったんですか」
「気になっているようだったので。どうしても隠し通すようなことでもありませんし」
ふふ、と微笑ましいという感じで笑われてしまう。子供っぽかったかなと少し恥ずかしくなるけど、今は嬉しい気持ちの方が勝る。
「思えば、私からプレゼントらしいプレゼントをしたことがなかったことに気付いたんです」
マイスさんはなんでも喜んでくれるので自分の好きなものばかり贈ってしまうんですよね、と彼は言う。確かにオンドルファさんからの誕生日プレゼントは毎年彼の好物のジュースだ。
「本当になんでも嬉しいんですよ。オンドルファさんが選んでくれたものだから」
「それでもたまには特別なものを差し上げたいと思ったんです」
そろそ生地を出しても良さそうですね。時計を確認したオンドルファさんにあわせて僕も席を立つ。
「やっぱり僕も一緒に作ってもいいですか? 愛する人に贈る日なんですよね」
「ええ。本来の趣旨から少しずつずれていっているような気がしますが……」
オンドルファさんが少しだけ困ったように、優しく微笑む。
こんな時間にクッキーを焼く匂いがしたら、明日はショコラやラスクに事情を尋ねられるかもしれない。そうしたらそのうち、シアレンスにもバレンタインデーの文化が根付くのだろうか。でも今年は二人だけのバレンタインデーだ。
(2025.04.29改題)
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朝だ、早く起きて畑仕事に行かないと。そう思うのにいつもよりも瞼が重たくて、目を覚ますことがひどく億劫に感じる。
白くぼやけた光と瞼の裏を視界が何度か行き来するうちに、その向こうに愛しい人の影を見つけると、今度こそ眠りから覚めた。
「オンドルファさん……?」
彼は僕と同じように横たわったまま、灰色の瞳でこちらを見つめていた。おはようございます、と律儀に挨拶を交わしながら僕は少し不思議に思う。僕が先に起きてオンドルファさんの寝顔を眺めるということはあっても──彼もとても早起きだから、なかなかチャンスがないんだけど──その逆というのは珍しいような気がする。
「もう大丈夫ですか?」
「大丈夫……?」
「昨日のことです」
まだはっきりとしない頭で、彼の言葉の意味を考える。昨日のこと、オンドルファさんを心配させてしまったことをぼんやりと思い出し始める。白昼夢や遠い出来事かのように感じるのに、胸の奥に重たく沈んだ痛みはたしかに残っている。
「……はい、もう大丈夫です。なんでだろう、昨日はきっとどうかしてたんです」
明るい声になるように気をつけて返事をする。オンドルファさんは曖昧な微笑みで「それなら良かった」と僕に合わせてくれている。
それから少し目を伏せて何か考え事をする時の表情になった。僕はそれをただ美しいと思い見つめている。それだけで心が満たされていく。
「私も時々、不安になることはあります」
またぼんやりし始めた意識を彼の静かな声が引き戻す。
「えっ、例えばどんなことですか」
僕にできることはないだろうか、それとも僕のせいだろうか。心臓が少し早く打つ。
「色々です。私たちの生活に合わせて無理をさせていないかとか。……この先どれくらい一緒にいられるのかだとか」
ひとつ目には無理なんてしていないと即答できるけれど、ふたつ目は僕の胸をひどく締め付けた。
「いえ……時間は問題ではないのかもしれません。ただ毎日を大切に過ごせればそれ以上の幸せはありません。それよりも、あなたがいなくなった後も続く人生のことが、いつかこの時間が遠い過去になることが……」
寿命の違いのことは前に話し合ったのにすみません、と彼は言う。僕は黙って首を振ることしかできない。
「あなたが昨日、記憶が曖昧になっているのを見て……本当はあなたではなく私が忘れてしまうことを考えていました」
「オンドルファさん……」
有角人はモンスターの中でも長寿の種族だ。そして人間やあらゆる生き物と同じように、長い時間を生きればその分だけ忘れられていく記憶もある。家族や、他の有角人たちのこと、一緒に育ち暮らしてきた集落のモンスターたちのこと。どんなに大切な思い出も、風が砂漠の砂を削るように薄れ、いつかは失われていく。
「どんなに考えても仕方のないことですが、不安で……悲しい」
オンドルファさんはひとつ息を吐く。無理に話を切り上げようとしているのが僕にもわかった。
「……だからあなたが昨晩話してくれてよかった、と言いたかったんです」
それから起き上がって「ごめんなさい、少し頭を冷やしてきます」とベッドから出ていこうとする。けれど、寝巻の薄い布を引いて引き止めれば黙って聞き入れてくれる。
尖った耳がほのかに赤い。いつもより少し熱の集まった頬に触れると、観念したように彼の目がこちらを向いてくれるから、そのままそっと引き寄せると、その長い髪が雨のように僕の頬に触れる。うす紫の影を名残惜しく思いながら目を閉じる。唇を重ねると、いつもと同じ彼の体温と感触がそこにある。
「ずっとずっとあなたのそばにいます。僕が生きている限り。そしたらきっとその時間の分だけ、忘れないでいられるんじゃないかと思うんです」
そんなことでは何も解決しないのは僕もわかっている。それでもオンドルファさんは静かに頷いてくれた。
「こんなことしか言えなくてごめんなさい」
「いいえ……何よりも嬉しい言葉ですよ」
本心だし、何よりもオンドルファさんに少しでも安心してほしかった。それなのにどうしてか、言葉を紡ぐごとに視界がぼやけて、彼が微笑むのを見るとついに涙がひと粒零れ落ちる。
「マイスさん」
「あれ、あはは、すみません……」
触れた肌の熱は引いて、また心配そうな顔をさせてしまう。
むりやり拭おうとする僕の手をそっと彼が握って、それから頬にやわらかく触れるものがある。それだけをこのまま永遠に感じていたいと願う。
涙は二人の肌のあいだに消えてしまう。そして空に昇り、いずれ遠いどこかの海へ降る雨となる。どうしてあんなに不安だったのか、もう思い出せなくなる頃に。
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