Onnela

オンドルファさんと結婚する
夢を見るマイスくんの話
(再録 / 2021.9.5発行)


01

 海鎮祭では不思議な夢を見ることがある。
 願った相手と――例えば毎日顔を合わせる隣人や時折訪れる旅人と興味本位で。それとも叶わない片思いのあの人と。そういった相手と自分が結ばれて、家庭を築いてる夢を見ることがあるのだと。そんな誰から聞いたのかも思い出せない噂話をぼんやりと思い出していた。
 わけあってフィーニス島を訪れてから季節が一つ過ぎようとしている、春の月の二十四日。海鎮祭は願いごとが叶うお祭りだと言われている。
 せっかくだからこの土地のお祭りを楽しもうと灯籠を受け取りに浜辺へと向かう。短冊に願いごとを書いて、灯籠と共に海へ流すのだそうだ。
 海にはすでにいくつかの灯籠が浮かび、夜空との境界線へと向かいゆっくりと流されていく。星空が溶け出したようにちいさな光が灯る水面を眺めながらペンをとると、無意識のうちに言葉がこぼれた。
「あの人と結婚したいんです」



 目を覚ますと、見慣れない景色が映る。自宅の天井でもなければフィーニス島でお世話になっている宿のものでもない。窓も、そこから差し込む朝日の光もなく薄暗い。
 体を起こして辺りを見回すと、薄暗いのはテントの中だからだと気付く。厚いカーテンに囲われた室内はきれいに片付けられていて、見つかるものはテーブルと椅子、部屋の隅に本棚や書類が置かれているくらいだ。ここはもしかして――
「おや、起きていましたか。おはようございます、マイスさん」
 まだどこか霧がかかったようだった意識が急激に引き戻される。穏やかな声が聞こえる方へ目を向けると、よく知る人の姿があった。
「オンドルファさん……?」
「はい。まだ少し寝ぼけてますね?」
 小さく微笑む気配。
 手に持っていたものをテーブルに置いて、オンドルファさんが同じベッドの端に腰を下ろす。彼が外から連れてきた朝の砂漠の空気が辺りに薄く広がり溶けていく。
 オンドルファさんがどこからかハンカチを取り出して、僕の額を拭う。びっくりして、それから、彼に触れられるのが嬉しくて、余計に体がぼっと熱くなる気がする。
「すごい汗ですよ。体温も高い……砂漠の気候にはなかなか慣れませんよね」
 心配そうにこちらを覗き込む彼には少し申し訳ないけれど、これは半分あなたのせいです。と、思うだけで声にならない。
 オンドルファさんの顔が近くて心臓がばくばくと鳴り、喉がカラカラに渇く。それに僕は何故、オンドルファさんのベッドで眠っていたのか、状況が飲み込めず頭がパンクしかけている。
「調理場から朝食を持ってきたのですが、先に水浴びをしてきた方が良いかもしれませんね」
 ハンカチを持った手が離れていって、サイドテーブルの水差しを取る。
 ――その左手に光るものに目を奪われた。
 次の瞬間、差し出されたコップではなく、思わずその手を掴んでしまう。わっ、と控えめな声とともにコップと中の水がシーツの上にこぼれる。心の隅で申し訳ないと思うけれど、構っている余裕は僕にはなかった。
 左手の薬指。ルビーが埋め込まれた銀の指輪。それは確かに、以前僕が作ったものだ。
「オンドルファさん!」
「はい……?」
 怪訝な表情で固まっているオンドルファさんを見つめて、意を決して口を開く。
「僕たち、結婚しましたよね?」
 言葉にした途端に、これは海鎮祭の不思議な夢なのだと理解する。
 それに反してどこからか浮かび上がるものがある。確かに僕からプロポーズをして、彼が受け入れてくれて、二人は家族になったのだという存在しないはずの記憶。
 なんて都合の良い身勝手な夢だろう。自分でも呆れるのに、握った手を離すことができない。この思いが叶うのなら夢の中でもいいじゃないかとどこかで囁く声がする。
「いきなりどうしたんですか。もしやまた記憶喪失では……」
「いえ、あの……、すみません。なんだか信じられなくて」
 あはは……と誤魔化す僕に、オンドルファさんは困ったように微笑む。彼が僕の左手をとると、白い親指が僕の薬指にはめられた同じ指輪を撫でる。
「忘れていないのなら良いんです。突然私を忘れて、どこかに消えてしまったりしないでくださいね。ずっとそばにいてくれると言ったのは貴方なんですから」
 それから、あまりこういうことは言わせないでください……。そう言って、気恥ずかしそうに顔を背けられてしまう。薄暗い部屋に目が慣れてきて、尖った耳がいつもより少し赤く、熱を帯びているのが触れずともわかる。
 その様子も言葉も、ただ手を握り合うことすらも嬉しくて、いとおしくて。そしてこれがただの夢だということがどうしようもなく悲しい。
 絶対にどこにも行きません。ずっとずっと一緒にいましょう。そう答えられたなら、それが叶うのならどんなに良かっただろう。
 言葉の代わりに、いてもたってもいられない衝動に任せて抱きしめる。オンドルファさんはまだ赤い顔のまま、はいはい、と半ばあきらめたように僕の体を受け止めてくれた。
 呆れられてもいい、この瞬間だけでもいい。ずっとこうしてこの人に触れたかったのだから。
 夢の中でも、ぎゅうっと抱きしめるとその感触が返ってくるものなんだな。どこか他人事のように感心していると、先ほどまで握り合っていた彼の手が背中にそっと添えられる。
「オンドルファさん、好きです、愛してるんです」
「わかっていますよ。マイスさん、今日は本当にどうしたんですか」
「オンドルファさんも僕のこと、好きですか?」
「ええ……愛しています」
 耳元でオンドルファさんの声がする。彼の細く長い髪が頬や鼻先をくすぐる。胸のあたりで互いの鼓動がぶつかる。
 ただ愛していると伝えられる。この気持ちを受け入れてもらえる。ただそれだけのことをずっと夢に見て、焦がれてきた。
 この夢が永遠に覚めなければいいのに、なんて月並みな願いを胸の中で繰り返す。情けないことに、ちょっとだけ涙まで滲んでくる。
「さあ、そろそろ支度をしないと。朝食は貴方が昨日釣ってきた魚ですよ。それとも先に水浴びにしますか?」
「それかもう少しこのまま、オンドルファさんとくっついてるのは……?」
「それは困ります」
「あはは、ですよね」
 もうしばらく幸せに浸っていたかったけれど、無情にもオンドルファさんが肩を叩く。でも、そんなところも好きだ。苦笑いと一緒に涙が一粒だけ零れた。



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02

 結婚しても日々の生活は案外変わらないもので、僕は一日の大半をシアレンスの町で過ごす。町も、家や畑の様子もいつも通り、穏やかな時間が過ぎていく。畑仕事をしたり、町のみんなと言葉を交わしているとこれが夢であることを忘れそうになる。
「えっと、クズ鉄なら確かストックがあったはず……」
 今日受けた依頼は、エリザさんから服の材料──何故かクズ鉄をご所望なことにも、もう慣れてしまった──を調達して欲しいというものだ。
 自宅の収納箱の中を探していると、奥の方に小さな麻の袋が仕舞い込まれているのを見つけた。
 手のひらの上に収まる大きさのそれを開けると、アクアマリンのイヤリングが手のひらの上にぽとりと落ちる。
 一瞬、どきりとひときわ大きく心臓が打つ。これはいつか、まだ正体を隠しモコモコの姿でオンドルファさんに会いに行っていた頃、依頼のお礼にと彼からもらったものだ。
 細かくカットされた表面にあたった昼の光は、淡い色の中に透き通り、反射して更にまばゆいきらめきに変わる。収納箱の奥底で眠っていたせいか水のようにひんやりと冷たい。
 なんの変哲もない、特別珍しくもない装備品だけど、僕はそれをいつまでも肌身離さず身につけていたのだった。それがこんなところで見つかるなんて。
 これは夢だと突きつけられたようで、僕はしばらく動けなくなってしまった。



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03

 日が落ち始めるより少し前、集荷に来たカリンを見送ると、今日は町の外へは出かけず早めに集落へと戻ってきた。集落でもう一仕事待っていたのだ。
「みんなー、ご飯できましたよー!」
 声をかけると、待ってましたと言うように一目散に調理場に向かってくるのはゼゼだ。普段からそんな調子ではあるが、今日は調理中から匂いでメニューを察知したらしく、いつも以上にうずうずしている様子に僕も気付いていた。
 少し前に雑貨屋でセールがあった際に調達してきた小麦粉などの材料があったので、今日は久しぶりにゼゼの好物のうどんを作ることにしたのだ。
 モンスターたちが身を寄せ合うこの集落では、住人たちが順番に食事当番を受け持っている。小さな集落とはいえ、皆の分を作るとなると一人暮らしの頃とはやはり勝手が違う。それでも、みんなで同じ食事を分け合うと言うのは大勢の家族ができたようで、手間や苦労よりも心があたたくなるような気持ちの方が勝った。
「ゼゼ。食事の時間に騒いではいけませんとあれほど……」
 すぐに呆れた様子のクルルファさんの声が飛んでくる。この後皆で料理を食卓まで運び一緒に食べるのが常だが、今日は残りの仕事は他の皆に任せて、僕はオンドルファさんのテントに向かう。
「オンドルファさん、いますか?」
 声をかけつつカーテンをくぐると、室内には一足先にランプに火が灯されている。中央奥にあるテーブルとその周辺には年季の入った巻物や分厚い本が積まれていて、その中でオンドルファさんは僕の声に顔をあげる。
「ああ、おかえりなさい。マイスさん」
「ただいま……って、実はさっきも一度、声はかけたんですけどね」
「それは失礼しました……」
 本当に今の今まで読書に熱中していたようで、オンドルファさんの声はまだどこか心ここにあらずと言った感じでぼんやりしている。昨日新しく手に入れたという本は彼の知識欲を満たすのに申し分のないものだったようだ。
「別にいいんです。でも、今日はもう読書はおしまいにしましょう? お弁当を作ったんです」
 夕食を詰めたバスケットをずいっと差し出すと、オンドルファさんがひとつまばたきをする。
 結婚してみてわかったことだが、誰よりも冷静でしっかり者に思えるオンドルファさんも、時には読書や研究に夢中になりすぎて生活が疎かになることがある。それを見越して、今日は僕たち二人の分だけお弁当を用意したのだ。
「ピクニックですか」
「はい。『星降りの砂漠』に行きませんか」
 流石の彼でも少し疲れたようで、丸いレンズの眼鏡を外して目を休めながら言う。町で見かけなかったから、今日一日この部屋に籠っていたのだろうか。
 夜には満天の星空が広がる『星降りの砂漠』は定番のデートスポットだし、気分転換にも良いだろう。
 それに、星明かりだけでは読書を続けるのは困難だろう、と言う打算もある。この調子では食事中も読書に夢中で僕は放ったらかしなんてことになりかねない。……オンドルファさんなら、もしかしたら魔法で灯りを出現させて読書を始めてしまうかもしれないけれど、そこまでして続きを読みたいのなら大人しく付き合うつもりだ。
「わざわざ皆の食事と別に準備してくださったんですね、ありがとうございます。それでは出かけましょうか」
 オンドルファさんが日に焼けた本のページを閉じて言う。

 砂漠を渡る夜の風は昼間からは考えられないほど冷たい。
 太陽が完全に沈んでしまうと、どこまでも続く砂の景色は夜の暗闇に飲み込まれる。無数の星が浮かぶ空の下に落ちる黒い影になってしまったようだ。
 オンドルファさんが魔法で灯した、二人の周囲を照らす程度のふたつの明かりの中で、集落から持ち出した敷布の上にバスケットの中身を広げる。畑で採れたトマトとチーズを挟んだホットサンドウィッチと、水筒に入れたホットジュース。朝食のようなメニューだけど、少食のオンドルファさんにはこのくらいが丁度良いようだ。
 どこか遠くでモンスターの声や岩が崩れる音が時折かすかに届くだけで、この辺りは静まりかえっている。話す声も砂と夜風に吸い込まれて消えていき、星の海の中に二人だけで浮かんでいるような錯覚を覚える。
 食事をとりながら取りとめもなく、今日の出来事を報告しあう。オンドルファさんが読んでいる例の本は海の生物に関するもの。アクナ湖でも海の魚は釣れるけれど、海にはこのあたりで見られないような生き物がたくさん生息しているのだとオンドルファさんは言う。
「地上の生き物が生身ではたどり着けないほどに深い海の底には、未知の生き物が住んでいるのだそうです。そこはいったい、どんな世界なんでしょうね……」
 魔法で灯された明かりや星の光ではなく、オンドルファさんのあわい灰色の瞳が好奇心にきらめくのが闇の中でも見える。砂漠で生まれ育った彼は深海の世界どころか海も実際には見たことがないのだ。かつては僕もそうだった──フィーニス島を訪れるためにシアレンスを離れるまでは。
 曖昧に返事をしながら、またこれは夢なのだと思い知る。指先が冷たいのは夜風のせいだけではなかった。
 海。僕の頭の片隅には昼間に見つけたアクアマリンのイヤリングのことが張り付いて離れずにいた。たったひと粒のアクアマリンがポケットの中でずしりと重みを増しているかのように感じる。
 ホットジュースのスパイスが体の芯をあたためてもまだなにかが足りないような心細さを感じて、隣に座る彼のマントの中に一緒に潜り込みたいと邪な考えが頭を過ぎる。同時に、もしも拒絶されたらきっと耐えられない、と相反する考えが頭をもたげて、体は凍りついたように固まったまま。
 彼から尋ねられて、取り繕いながら僕も町での出来事を話すけれど、行き場を見失って漂うような不安にのまれて、自分の声すらどこか遠くで聞こえる。
「今日はお疲れのようですね。そろそろ帰りましょうか」
 僕の様子を見かねたオンドルファさんが言う。思いのほか体が冷えてしまったから、今日は旅館のお風呂に入りましょうとの彼からの提案に、なんとか笑顔を繕い直して答えた。



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04

 町から戻ると、集落の皆は各々の部屋で思い思いに過ごしているようだった。松明の炎とテントから漏れる灯りが集落を暖かく照らしている。
 オンドルファさんも再び部屋の隅に置いたランプに火を灯して、僕は出入り口のカーテンを閉じる。僕が自宅から持ってきた寝間着に着替える間に、オンドルファさんは魔法であっという間に着替えを済ませてしまう。
 机の上に広げられた本や巻物はそのままに、今日は一緒に寝台へ入る。オンドルファさんが僕を心配してくれていることにはもちろん気づいていたけれど、夜が深まり一日の終わりが近づくほどに心は重たく沈んでいった。次に目が覚める時、この夢はもう消えてしまっているのだとわかっているから。
「オンドルファさん」
「はい」
 僕から切り出すのを待っていたと言うように、すぐに静かな声が返ってくる。角が僕にぶつかってしまうのを気にして控えめに、眼鏡越しではない視線がこちらに向けられる。灰色の瞳は薄暗い部屋の影を映していつもよりも深い色をしている。
 言葉を探すと胸がぐっと苦しくなって、喉がひりつくほどに乾き、どこかへ逃げ出したくなる。いったい、これ以上どこに逃げる場所があるのか検討もつかないと言うのに。
「もしもこれが夢だったら、オンドルファさんはどうしますか?」
 例えば、目が覚めたら二人はただの友人だったら。現実では恋心を打ち明けることすらできないとしたら。
 僕の口から出る声は思いのほか平坦で冷えていた。
「今朝から様子がおかしかったのは、そのことですか?」
「……」
「私たちには出会ってから今この瞬間までの思い出があります。けれどそれが全て夢かもしれない、ということですよね……。難しい問題です」
 オンドルファさんはほんの少し困惑した様子で、でもどこか納得したと言うふうに話す。
 何を馬鹿なことを、と切り捨てずに考えてくれるところがオンドルファさんらしい。どこか他人事のように、そういうところが好きなのだと心の中でもう何度目かの再確認をする。
 オンドルファさんのそう言った性格こそが、今思えば僕が彼に特別な思いを抱くきっかけだったのかもしれない。
 人間とモンスターでいがみ合いたくない。初めて出会った時彼が言ったその言葉は、雲をよけて光の道をあける風のように僕の中へと届いた。それはちょうど、自分が人間とモンスターの間の子であり、そのどちらからも拒絶され得ることを自覚した頃だった。初めて秘密を打ち明けられた相手もオンドルファさんだった。
 彼の声が途切れる合間に、鼓動の打つ音、ランプの炎が燃えるかすかな音が耳に届く。
「胡蝶の夢と言う説話を読んだことがあります。夢の中で蝶になった男が、目覚めてからそれが夢なのか、あるいは自分こそが蝶の見ている夢なのかと疑ったと」
「はあ……」
「つまり、夢と現実をはっきりと区別することはできないという話です」
 突然難しい話が始まるのも彼らしいのだけど、予想とは別の方向に話が転がったことになんだか拍子抜けしてしまってつい、返事が曖昧になる。オンドルファさんは僕が早々に話に飽きたと思ったのか、端的にまとめてくれる。
 あるいは、と少し考えてから静かな声は続ける。
「並行世界というものがあると考える人もいるようですね」
 並行世界。例えば、もしも僕がシアレンスではなく別の町にたどり着いていたら。モンスターに変身する能力を持っていなかったら。……もしも、オンドルファさんと結ばれていなかったら。そんなふうに様々な可能性で枝分かれし、幾重にも重なりながら存在するかもしれない世界。
「この世界とはじまりの森の関係とはまた別ですか?」
「どうでしょう……。並行世界が存在するとして、もしかしたら全ての平行世界がはじまりの森に繋がっているのかもしれないし、あるいは並行世界の数だけはじまりの森も存在しているのかもしれません。はじまりの森のことは未だに研究が進んでいませんし、並行世界もその存在が証明されているわけではありません。ただ、解き明かされていない分だけ無数の可能性が広がっていると言うこともできるでしょう」
 オンドルファさんの話を聞きながら、今朝目覚めた時のこと、この夢の中で僕とオンドルファさんが積み重ねてきた記憶のことを思う。まるでずっとこの世界で生きてきたかのような感覚と記憶と、反してこれは夢なのだという確信。
 今目の前にいるオンドルファさんは、現実で僕が思いを寄せる彼と殆ど同じだと言える。恋仲になって、結婚して初めて知る一面もあったけれど、それも僕の知るオンドルファさんの延長線上にあるものだとわかる。ずっと彼のことを見つめて、思っていれば納得のいくことばかりだ。
 だけど一点だけ、決定的に違うことがある。
「少し遠回りしてしまいましたが……」
 先ほどまで、思考を整理するために僕には見えない知識の蓄積を宙でなぞっていた彼の視線は、気がつけば再び真っ直ぐに僕を見つめていた。仕切り直しというように改まった声。
「もしもの話はあまりにも膨大な可能性を含んでいますから、私には今の私自身の気持ちしかお答えできるものがありませんが、」
 それから最適解を探して一度言葉が途切れる。唇が躊躇うように閉ざされてから、暗闇の中でも白い指がおもむろに伸びて僕の髪をそっとよけると、視界がうまって、そこに触れる感触がある。
 口付けはほんの数秒で離れていって、まだ残された指におそるおそる僕の手を重ねてみる。指の付け根に一箇所だけ、ひやりと冷たく硬い感触がある。
 遠くでランプの火が小さく弾ける音、また心臓が軋む音。
「私に言えるのは、あなたを愛しているということだけです」
 あなたの言う『現実』の私もそうだったら良いのですが。先ほどの説明とは矛盾する、叶うはずのない祈りに、贈られた口付けに、彼の愛情の全てが込められているとわかる。
 僕を愛してくれている。それだけが僕の知るオンドルファさんと、目の前にいるこの人との決定的な違いだった。
「僕も」
 しぼり出した言葉はみっともなく掠れていた。きっとどんなに言葉を尽くしても不恰好で、何もかもが足りない。それでも何か、言葉ひとつだけでも、ここに残していけないだろうか。
「僕もオンドルファさんのことが好きです。愛しています。この夢が覚めてもずっと……」
 どうしても抑えられずににじむ涙を、オンドルファさんと重ねていた手を離して拭う。
 おやすみなさい、と囁く声と、僕の、角のない額をもう一度撫でる彼の指。まだもう少しこの夢を見ていたいとしがみ付こうにも、意識は重たく深い眠りに落ちていく。
 沈みゆく意識の中でぼんやりと考える。オンドルファさんが僕を愛してくれる世界が存在がもしも存在するのなら。その可能性がどこかに眠っているのだとしたら。それが僕の知らない世界でも、あの人の祈りが叶いますように。



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05

 潮のにおいと海鳥の声で意識が浮上する。ベッドの上の小窓からは、町の音はまだ聞こえてこない。住人たちも旅人もまだめいめい寝床の中で休んでいる時間だ。
 昨夜の疲労感が残っているものの、ベッドの中に留まる気にもなれなくて床に足をおろす。時折海風が叩く大きな窓を開けると、島を囲む果てしない海が広がっている。地平線のほんの少し上に太陽が昇り、朝焼けのペールオレンジがまだ残っていて、海の色も淡い。重たい目には少し眩しすぎる景色だ。
 ふと、風が耳元を揺らす感覚に気がつく。昨日身につけたままで眠ってしまった、アクアマリンのイヤリングだった。
 外して手のひらに載せると、いつもと変わらず澄みきった色をしている。湖や川の色よりも深く、チャームブルーの花よりも淡く透き通っていて、いつか誰かが僕の瞳の色と似ていると言ったような気がする。
 どんなに探しても何かが足りなかったこの色の正体を、この島に来てから僕はやっと知ることができた。思えばその名前の通りだが、これはどこまでも淡く、深く、透き通った夜明けの海の色だった。無数の可能性が眠る未知の世界の色。
 ああ、早くオンドルファさんにも伝えたいな。この海に囲まれた島で見つけたものたちのことを。



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