3・銀世界

銀世界


 目が覚めて最初に気がついたのは、洞窟中がひどく静かなことだった。吹雪は夜明け前にどこかへ行ってしまって、残響さえ残っていない。深く潜りこんで身を隠したモンスターたちも、もう春まで眠っているつもりなのかもしれない。
 次に、なんだか体が重いと思ったら、毛布の下でマッシュのまるっこい頭がお腹に乗っかっていた。暖炉の火が尽きてしまって寒かったのだろう。蝋燭もずいぶん溶け出して、中に消えかけのか細い火が溺れていた。あの後いつ寝床に戻ってきたのか、記憶が曖昧だ。
 窓は下の方が雪に覆われて、灰色の弱々しい光の欠片が投げかけられている。たて穴の向こうはほとんど雪で塞がれているようだ。
 そのうちみんなが目を覚まし、昨晩見た夢の話なんかをのんびり話し始める。ゼゼと二人で暖炉に薪と火を入れ直していると、奥の部屋の方からお茶を淹れる音が聞こえてくる。
 他所のチロリが短く鳴いて挨拶をしてから、扉の隙間をスルリと抜け出していった。
 みんなで朝食を囲みながらこれからのことを話し合う。
「すぐに嵐が止んでよかった。あとで外の様子を見に行きましょう」
「みんなを家に送らないとですよね」
「ええ。いつまた天気が崩れるかわかりませんから」
 いつもなら冬眠しているはずの生徒はこんなに雪が積もるところを見たことがないものだから、気もそぞろに、けれど昨日の晩とは違って楽しげに、窓の雪をずっと眺めている。好奇心のまま寄り道をして風邪をひいたりしないといいのだけど。
「……マイスさんも、冬の間はここにいたら良いのに」
 不意に、クルルファ先生がつぶやいた。熱いお茶に吐息を落とすような小さな声だったけれど、彼女はちらと僕の方に視線を向けて続けた。
「ここなら暖かいですから、冬眠しなくても良いかもしれませんよ」
「そうだナ。あと、〝ふわ毛〟が取れると冬は便利なんだよナー」
「え、そういう理由……?」
 クルルファ先生の言葉で切なくなった心が、ゼゼの無邪気な一言でサッと冷える。
「二人とも、マイスさんを困らせないでください」
 助け舟を出してくれたのはオンドルファ先生だった。「はーい」と、クルルファ先生は残念そうに、ゼゼは気のない返事をする。
 僕の方はありがたく思うと同時に、いよいよお別れだと思うと、寂しさもまた増すのを感じていた。
「来年はきっと早めに目を覚まして、遊びに来ます」
「はい。皆待ってますよ」
 冬の間、とくに風の強い晩にはきっと、その言葉を何度も思い出しては眠りにつくのだろう。


 「体に気をつけて」「よく眠って」と思いつく限りの言葉を交わし、たっぷり別れを惜しんでから、学校を出て二手にわかれる。クルルファ先生とゼゼは学校の近くの出口へ、僕とオンドルファ先生は反対の森の方へ向かうことになった。
「足元に注意してくださいね」
 灰色のほのかな光も届かない場所まで来ると、オンドルファ先生は魔法で小さな光の球を浮かばせて、また真っ直ぐ歩き始める。
 角ばった岩もところどころに雪をかぶって白くなり、透明な氷柱がおりている。
 水辺に近づくにつれ、足元は磨かれたようにつるりと薄い氷がはり始める。
 湖は深い碧いろの水晶のようになってじっと固まっていた。よく覗くとその下で時々、黒い水が揺らぐのや、通りすぎていく影が見えた。
 もう一匹のモコモコの子は氷の下を横切る影に驚いて、先生の後ろに隠れる。マッシュはふかふかの雪に触れてみるとその冷たさに震え上がり、その場で固まってしまった。生徒たちは様変わりした景色を、恐る恐る、そして興味深そうに覗きこんでいる。
 いつもなら外から光が流れ込むあたりまで進んでも、未だ薄暗い闇が続いていた。
 出口があるはずのそこは昨晩のゼゼの話のとおり、真っ白な雪で固く閉ざされている。ここまで来ると、足元の雪も深くなり始めていた。
 僕とオンドルファ先生で雪の壁を叩いてみても、分厚い壁の中にしんと吸い込まれてしまってびくともせず、反動が返ってくることもない。
 生徒たちを少し離れさせて、オンドルファ先生が炎の魔法を使って雪を溶かす。
 僕もカバンからひと粒の大きな種を取り出して、真新しい雪の上に乗せる。そこから目に眩しい緑の芽が出たかと思うと、ぐんぐんと太い幹を伸ばして剣草に成長する。溶け出した雪の壁を剣草が音を立ててどんどん突き崩し、ぬるい雪どけ水が足元を流れていく。
 雪のかたまりとかたまりの隙間から光がかすかに溢れ始める。最後にはその上の方に積もった雪ごとどさりと崩れて、目の前が開けた。空に薄いレースのカーテンを下ろしたように、灰色の薄明かりであたりが照らされているのが見える。
 這い出してもっとよく見渡すと、地の果てまで白一色だった。寒々しい灰色の光は雪の表面を青や銀色に輝かせている。
 枝という枝はたっぷり雪を乗せて、木のひとつひとつがおおきな雪の吹き溜まりのように見えた。地面も深い雪に覆われてモコモコのお腹まで埋まるくらいの深さがあって、小さな結晶がちくちくと足を刺した。
 昨日最後に見た景色とまるで違う。地を覆うオレンジや黄色の木の葉も、晴れた青い空も、すべてのあたたかい色をあの猛吹雪が追い出して、たったひと晩にして冬に変えてしまったのだ。
 雪に浸かったマッシュは寒さにぶるぶる震えてしまって、見かねたオンドルファ先生が抱き上げた。リリウムの方は大丈夫だろうか、少し頭をよぎる。
 空気も心臓まで突き通すように冷え切っていたけれど、モコモコは秋の間にいっそうあたたかい綿毛に生え変わっていたから、僕ともう一匹はまだ耐えられそうだった。
「さあ、凍えてしまう前に家に帰りましょう」
 モコモコの家族はりんごの木のそばで待っていた。赤い実をつけるはずのその木にも今は他の木と同じに雪が積もって、時々、耐えかねた枝がそれをどさりと揺り落とすばかりだ。
 太い幹が不思議にねじれた松の木の下にあるほら穴にマッシュを送り届けると、寝ぼけ眼の仲間たちが冷えきったその子を真ん中に囲んで温めるようにして、また夢の中へ戻っていった。


 目的を果たしてしまうと冬の森はいよいよひどく静かで、冷たい風の吹き抜ける音や、雪が崩れる音がはるか遠くで響くだけだ。それが余計に心を凍えさせるようだった。
「ここまでありがとうございます、マイスさん。貴方も早く帰らなければ」
「はい。やっぱり、ちょっと名残惜しいなあ……」
 思わず正直な気持ちを口にすると、意外なことにオンドルファ先生は「私もです」と微笑んで言った。
「えっ?」
「帰ったら、あとはあそこにこもって書斎に座っているか、時々釣りに出掛けていくか、春までずっとその繰り返しですからね。雪の中を飛び回るフェアリーや、貴方たちの賑やかな冬の暮らしも少し羨ましくなります」
 言葉と一緒に彼の息が白い霧になっては、澄んだ空気の中に消えていく。声の調子はいつも通りに静かで穏やかだった。
 僕は名残惜しい気持ちに大義名分ができたような錯覚をして、心のまま言葉を紡いでいた。
「じゃあ、もう少し歩きませんか」
 もと来た方向を振り返ると、僕たちの他には誰も何も見えない。オンドルファ先生の足跡と、僕が作った細い小道のような溝だけがまだ柔らかい雪の上に残っている。
「……そうですね、少しだけなら」
「よかった」
 人間の姿に戻る時、風に舞い上がった雪が昨晩のように金色に光るのが見えた。あたたかい毛皮を失って、人間の姿の方が寒さが厳しく感じる。
 オンドルファ先生と目線の高さが近くなると、薄明かりの下では彼の灰色の瞳は、髪の色に似て紫がかって見えることに気がつく。
 頷きあって、ふた揃いの足跡を作りながら丘の方へ歩いていく。またじきに雪が降ったら塗りつぶされて消えてしまうのだろうと考えながら、今はまだ寂しくはなかった。
 それよりも街が見渡せる場所に出て、人間の学校やお祭りでみんなが集まる広場や、立派な図書館の話をしたら、彼の瞳はどんな色に輝くだろうという想像が心をあたためた。